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東京高等裁判所 昭和54年(う)354号 判決 1979年5月30日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人渡邊靖一作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これをここに引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

第一、控訴趣意第一点は、事実誤認を主張し、原判決は、被告人が、充満したガスを爆発させて自殺しようと企て、ガスを室内に充満させたものの、なかなか死ぬことができず息苦しいため、自動点火装置のあるテーブルコンロのコックつまみを廻して発火させ、その火を各室に充満していたガスに引火させて爆発させたものであって、この一連の行動には脈絡があって、通常人にも容易に納得しうるものである旨認定判示しているけれども、本件の場合、被告人は、自殺を決意し、密閉した室内においてガスを吸引して、昏迷状態、すなわち医学上心因性もうろう状態に陥っていたものであって、それにもかかわらず、前記の理由等に基づき、被告人が犯行当時、心神喪失の状態にも、心神耗弱の状態にもなかった旨認定した原判決は、事実を誤認したものであるというのである。

よって、記録を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて検討すると、原判決挙示の証拠、なかんづく斉藤武および柴田雄介の検察官に対する各供述調書、検察官作成の「天然ガス吸入による症状について」と題する書面、小林勝義作成の「ガス栓(カラン)からの噴出量推定について」と題する書面、検察事務官作成の録音テープ再生報告書、押収してある録音テープ一巻によると、

(一)、被告人が、本件ガス爆発で傷害を負い、救急車で搬入された上口医院内において、当日、警察官および消防署員に対し、「サラ金の借金がたまりにたまって、一〇〇万円くらいになり、自殺しようと、午前一〇時ごろガスの元栓を開け、六畳間で寝ていたが、なかなか死ねないものだから、自動点火式のガスこんろをいじった」旨供述しており、当時の記憶が明確であること、

(二)、被告人が右ガスこんろを操作した当時、居室内のガス(天然ガス)の含有率は一二パーセント前後であったと推定されるが、その程度では意識障害を起こすとは考えられないこと、

などが認められ、被告人に精神病、精神薄弱などの疑いの存しない本件においては、犯行当時、被告人には、是非善悪を弁識し、弁識に従って行動する能力が欠け、あるいは通常人に比して著しく減弱していたものとは考えられない。この点につき、原判決が「弁護人の主張に対する判断」として判示するところは、すべて肯認することができる。

被告人は犯行当時通常の精神能力を有していた旨認定した原判決には、事実の誤認は存しない。論旨は理由がない。

第二、控訴趣意第二点は、量刑不当を主張し、犯情に照らして、被告人に対しては、酌量減軽をした刑期の範囲内で刑を量定すべきであるというのである。

よって、記録および証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて検討すると、本件の事実関係は、原判決の認定判示するとおり、被告人が、競輪等に熱中し、いわゆるサラリーマン金融業者からの借金が約一〇〇万円にも及び、これまで数回にわたって借金の弁済に迷惑をかけて来た妻や母に打ちあけることもできないところから自殺を決意し、昭和五二年一一月二五日朝、妻が子二人を連れて外出したあと、原判示アパート武井荘二階の自宅において、ガスのカランを開放し、天然ガスを室内に充満させて自殺を図ったものの、死に切れず、右ガスを爆発させて自殺しようと企て、自動点火装置のあるテーブルこんろのコックのつまみを廻して発火させ、その火を室内に充満していたガスに引火させて爆発させ、現に人の住居に使用する右アパートほか一一棟の建造物を損壊させるとともに、二一戸の建具、家具等を損壊させて、公共の危険を生じさせたというものである。本件犯行に至る経緯は、原判示のとおり、被告人が、競輪、競馬等に熱中し、給料の前借では足りず、貸金業者から借り歩き、その間妻や母の努力で三度にわたり、合計約一七〇万円を用立ててもらって借金を整理したにもかかわらず、一年足らずの間にさらに約一〇〇万円の借金を作り、切羽つまって自殺を図ったものであって、すべて被告人の身勝手な行動に基因していること、また、その自殺の方法も、他人に対する危険や損害を一顧だにしないものであり、幸い被告人のほかには軽傷者数名に止まったものの、建物、建具、家具等に及ぼした損害は、合計約二、二〇〇万円にも及んでいることが認められ、被告人の刑事責任は重いものといわなければならない。

してみると、被告人も本件犯行により重傷を負ったこと、被告人の妻が被害者方を謝罪して歩き、二四名から宥恕を得たこと、被告人は、犯行後信仰の道に入り、現在叔母の営む食堂で真面目に働いていること、被告人には前科前歴はないことなどを斟酌してみても、本件が酌量による減軽をしなければならない事案といえないことはもとより、被告人を法定刑の最下限である懲役五年(求刑同七年)に処した原判決の量刑は、やむをえないところであって、決して重きに失して不当であるとはいえない。この点に関する論旨も理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は、同法一八一条一項本文により被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 綿引紳郎 裁判官 藤野豊 三好清一)

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